量子論は深慮であり、とても面白いものです。
一見、何の脈絡も無い話だと思われるかもしれませんが思考のエネルギーについて学んでいるうちに、気がついたらここにきていました。( ̄∇ ̄)
少しでも学んでみると、量子論が自己成長のために本当に学ぶべき価値のあるものだということがわかります。
この記事はあなたに是非それをお伝えしたくて書きました。
少し長くはなりますがよろしくお付き合いくださいませ。
日本一簡単な量子論
私があなたの注文に従って『つがいの文鳥』をオスとメスに分け、全く同じ外見の箱二つにそれぞれの文鳥を入れてからシャッフルします。
二つの箱が完全に見分けがつかなくなったところで一つずつそれぞれをあなたのご自宅と日本から最も遠い国、ウルグアイに住むあなたのご友人に宛てて送りました。
箱に入れるまでそれは確かに『文鳥』なのですが、文鳥を箱に入れ、外から見分けられなくなった時点で箱の中身は実は大変なことになっているんです。
- 配達された箱を開けてその中身をあなたが観測する瞬間までは、『オスでもメスでもないし、文鳥ですらないもの、または両方が同時に』両方の箱の中に存在しています。
- あなたが箱を開けて(認識ではなく)観測した瞬間に得体の知れないものが『メスの文鳥』となって出現します。
- そのことが同時にウルグアイに送られた箱の中身に『ペアのつながり』によって伝達され、ウルグアイのご友人の元に遅れて到着した箱の中身はつがいの片方、つまり必ず『オスの文鳥』となって出現します。
( ̄へ ̄|||) ウーン?
ってなりますよね?
あなたの注文通りの荷造りがなされていれば、箱の中にどちらかの文鳥が入っている確率はそれぞれ50パーセントです。
もしあなたが自宅でメスの文鳥を確認したのであれば、ウルグアイに送られた箱の中身は『オスの文鳥』であるということは、わざわざウルグアイのご友人に確認してみるまでもなくわかることです。
無理なく常識的に考えても最終的な結果は何も変わりません。
しかし量子論では、
『観測するまではどちらでもない状態で混在している』し、『ペアの一方を観測する行為がもう片方の状態を遠隔操作して決めてしまう』
というのです。
そもそも『量子論』はただ物事を難しくしようとしているだけではないのか?
そんな量子論に対する偏見を持って私が綴ったこの作文こそが、『日本一分かりやすい量子論の説明』であろうと自負しております。
( ̄^ ̄)v
『量子論』を巨視化して語るととんでもないことに!
『量子』とは『小さい塊』といった意味です。
まず大前提として、
『量子論』で扱う現象は『目に見えないミクロ世界の法則』であって、私たちが普段認識できる範囲にあるマクロな環境の物理法則とは全く異なるもの
と考えてください。
『量子論』をこの作文のように『巨視化』した事象に当てはめようとすると、なんとも歪(いびつ)なことになってしまうのはこのためです。
先ほどの私の作文の歪な表現部分に対応している『量子論』はそれぞれ以下のようになっています。
■『文鳥が箱の中では、オスでもメスでもない、ましてや文鳥ですらないかもしれない状態。』
↓↓
『粒子は様々な可能性が重なり合った状態で存在し、観測によっていずれかの状態に収束する』
:コペンハーゲン解釈
■『一羽の文鳥がペアのどちらの性質を持っているものであるかを観測した時点で遠隔地にいるもう一方がその情報を受け取り、観測されていない側の性質を持った状態で出現する』
↓↓
『ペアになっている二つの粒子間の結びつきとそれぞれの自転方向は、それらをいくら遠くに引き離しても変わることなく、片方の粒子の回転方向が観測された時点で、もう一方はその正反対の回転方向に定まる』
:量子エンタングルメント
物理学者ニールス・ボーアらによって提唱された『量子論』の要となる『コペンハーゲン解釈』は多くの学者によって何度も繰り返された『光子(こうし)の二重スリット実験』の結果を踏まえ、『シュレーディンガーの波動方程式』によってちゃんと数式として表現されている理論的解釈です。
アインシュタインがどうしても納得しなかった『量子エンタングルメント』は、のちに特殊相対性理論に基づいて書かれた数式を打ち崩すことでその存在を証明されたものです。
ここからは量子力学で特に重要なこの二つの理論的解釈について順を追って解説させて頂きたいと思います。
『コペンハーゲン解釈』の成り立ち
『光子(こうし)の二重スリット実験』とは
光子(ミツコではありません)とは、『光の粒』のことです。
光子は『素粒子』と呼ばれる、それ以上分解できない最小単位の物質です。
この光子を二本のスリットに向けて発射し通過させ、その運動の結果を観測するのが『光子の二重スリット実験』です。
この実験ではスリットを通過した光子の運動の結果としてスリット板の後ろに立てたスクリーンに描かれた模様を観測するのですが、
スリットを通過した光子は投げられたボールのように『スリットを通過したままの軌道を描いてスリットの形と平行に進む』といった様な単純な運動をするわけではなく、スクリーンに干渉縞(かんしょうじま)を描くという、
まるで大きな波がスリット板によって二つに割れ、さらにスリットの向こうで干渉しあっているかのような複雑な動きをしているということがわかりました。
スクリーンに光子が描いた干渉縞を観察した科学者は
「これは2つのスリットを通過した複数の光子がまるで波の様に干渉しあっているのだろうねぇ。」
という事で今度は複数の光子によって干渉が起こらない様に光子をひとつずつ連続発射してみる訳です。
ところがスクリーンにはまたしても連続発射した光子による干渉縞が出来上がります。
ンエェェェ!(゚Д゚≡゚Д゚)
ならば!と、光子がスリットのどの部分を通るのかを知るために観測地点をスリットの直前、または直後に移動すると、
今度はボールをスリットに向けて投げ込んだように二本のスリットのいずれかを通り抜けてきたままの整然とした軌道を取り、スリットの後ろに立てられたスクリーンに二本の平行な縦線を描く単純な運動をするという現象が起こりました。
さらに面白いことに、観測を中断すれば光子は再びスクリーンに干渉稿を描く運動に戻ってしまいます。
『うわー!なんかスッゲェ見られてるから今回は真面目にまっすぐ飛びますね。』
~~~ヾ(^∇^;)
というような、まるで光子が観測者に対して『緊張感』を抱いているかのような振る舞いをしているのです。
一粒の素粒子が意思を持って状況判断をするとでも言うのでしょうか?
先生が自習を言いつけて教室を出て行って不意に戻ってきた時の生徒の反応みたいですね。
(。・ω・)(・ω・。)ネー
二重スリット実験における”観測”について
もちろんイラストの様に光子が肉眼で見えるわけではありませんので『観測地点を移動した』というのは量子レベルの分解能を持つ電子顕微鏡などの測定装置を『スリット側に置いた』という事です。
映像として現象を捉えようとする場合、肉眼であろうが電子顕微鏡だろうが望遠鏡だろうがたとえ暗視カメラであろうが、わずかでも光がなくては何も捉えることができません。
観測地点の移動によって光子の挙動が変わってしまったのは、観測のための光源からの光を観測対象の光子に当てた(光子を観測する為に別の光子をぶつけた)ことによって量子間の相互作用が起こり、その運動を変えてしまった為です。
科学者達は二重スリット実験によって『量子の観測以前の状態』を観測によって知る事が出来ないというジレンマを抱えてしまうことになったのです。
(観測問題について詳しくはこちらの記事をご覧ください。)
観測しない限りそれは『波』であり、観測した途端に『粒子』となる。
この実験結果に科学者たちは大いに悩みました。
実験では単体の光子の運動を観測しているのですから、光子が複数個集まって集団で干渉しあって『波』を作っているわけではありません。
または単体で蛇行して波のような動きを作っているのでもありません。
しかし単体の光子が同時に複数存在していなければ波のような干渉を引き起こすことは不可能です。
この実験によって、最終的に光子はそれ単体で『粒子』と『波』の二面性を持っていると結論づけられました。
これを提唱者である物理学者ニールス・ボーアの研究所の所在地名にちなんで『コペンハーゲン解釈』と呼びます。
『粒子と波の性質を併せ持つ』とはつまり、『観測』によって光子が『波として拡がっていた空間の一点に『粒子』となって現れて見えるというかなり強引な解釈です。
このコペンハーゲン解釈の正当性を証明する『波動方程式』によってシュレーディンガーが定義した『粒子の波動』である『波』の状態は、
実は粒子の集まりなどではなく『確率波』と呼ばれる『別の何か』であり、粒子はその可能性が収縮した結果であるとする、これもまた奇抜な解釈がのちにマックス・ボルンによって付け加えられていますが、突き詰めたところでそう表現するほかはなかったということです。
いずれにせよ解りにくいことこの上ない表現ですよね。
そもそもがマクロな物理法則の範疇をはるかに超えたミクロ世界で起こる事を探求する学問です。
この解りにくさと奇抜なこじ付け感こそが量子論の醍醐味だと私は思います。
( ^ω^ )
話を戻します。
たとえ『波』と『粒子』の二面性があろうとも実体は1個なので、質量の変化はありえませんし、そもそも『波』であることは『観測されなかった場合の結果の観測』から導き出した『推測』に過ぎません。
では、そもそもなぜ『観測以前から粒子としてそこにある』とはならないのでしょうか?
光子以外のミクロな粒子(電子、原子、分子、原子核、陽子、中性子、その他素粒子全般)も観測以前に『波』の状態があるという前提を置くことで、
熱せられた気体が放つ『独立した線状のスペクトル現象』を解明した『量子飛躍』など、いろんな粒子の不可解な現象を詳しく説明できるようになるからです。
量子飛躍
地球を周回する人工衛星であれば高度1000Kmから1001km、1002km‥というように連続して軌道を変更しますが、原子核を周回する電子は特定の軌道を取ることしかできないため、軌道を変更する際の運動は不連続(=飛び飛び)になります。
つまり、電子は周回軌道間を瞬間移動(ワープ)します。
このように電子が不連続に原子核の周回軌道を切り替える現象を『量子飛躍』と言います。
容器に閉じ込めた水素ガスの中で放電を起こすと水素原子は鮮やかな光を放ちます。
この水素原子が放つ光に見られる『独立した線状のスペクトル現象』をニールス・ボーアは、この量子飛躍で説明しました。
スペクトル:光や電磁波を分光装置(プリズム)によって波長の違いに従って分解し,波長の順に並べたもの。
『独立した線状』に対して、太陽光や白熱電球の光をプリズムに通して観察した際に現れる、色の境界が曖昧に混ざり合った連続した『虹』のようなスペクトルを『帯状のスペクトル』といいます。
水素原子が熱せられることによって原子核を周回する電子が周回軌道を飛び移る際に生じるエネルギーがその軌道ごとの特定の波長に切り替わり、それぞれの波長が持つ鮮やかな色の光を生み出しているのだとボーアは考えました。
これは『光を発する粒子(resonator)はとびとびの値しかとれない』とするマックス・ブランクの『量子仮説』を前提とした、計算上の問題がない有効な原子モデルではあったのですが、電子の振る舞いに言及した『量子飛躍』がなぜ起こるのかを説明するには不十分でした。
本文中に示したように、電子が波の性質を持つものであるとすれば、粒子としての電子が存在出来る位置は限られます。
これが物理的な制限となって『原子核を周回する電子は特定の軌道しか取れない』となるため、コペンハーゲン解釈以降『量子飛躍』が起こるメカニズムの説明ができるようになったということです。
やはり量子は観測されるまでは『粒子』ではなく『波』なのです。
そして観測された時点で『可能性のあるいずれかの状態に収束する』のです。
観測しない限りは確率の『波』で、観測した途端に『粒子』という表現は、既存の物理学では説明がつかない奇妙で不可解なミクロ世界の現象を『今すぐ分かる形で』言い表したものなのです。
この量子の振る舞いを観測者効果(=Observer Effect)と呼びます。
光を当てるイメージで観測者効果を表現するとこんな感じになります。
『可能性』が観測によって一点に収縮(=波動関数収縮)し、『粒子』となって出現した事を表しています。
『シュレーディンガーの波動方程式』とは
粒子を観測する以前の『確率波』の状態を既存の物理法則で無理やり言い表すと、
『1個の粒子が完全に等価の状態で一定の空間に複数同時に”可能性として”存在している』となります。
これは『分身の術』で例えた場合のオリジナルとコピーという、『正体はそのうちのいずれかひとつ』という概念ではなく、パソコンでファイルを複製した時と同じで、『完全にオリジナルと同じレベル』のものが散らばって密度を保った『波』を形成している状態です。
その『波』が観測のエネルギーを向けられた瞬間に『波』として拡がっていた空間のどこかに『一つの粒子として収縮する』というのが『コペンハーゲン解釈』の論旨ですが、その際、『波』であった空間のどこに『粒子』が現れるのかは確率的にしかわかりません。
『シュレーディンガーの波動方程式』は観測前の『波』の状態から『観測によって粒子が出現する座標の確率』を予測する計算式のことで、量子論を学術的に、または技術的に応用する際の絶対的基礎となっている大変重要なものなのです。
観測問題大論争の火種となった『シュレーディンガーの猫』
『波動方程式』によって『コペンハーゲン解釈』の正当性を立証したエルヴィン・シュレーディンガーは、人間の「意識」によって「波動関数の収縮」が引き起こされるとした『ノイマン=ウィグナー解釈』に対する反論として、『シュレーディンガーの猫』というちょっと残酷な思考実験(理論に基づく仮説のことで実際に行ったものではありません)を提示しました。
◆シュレーディンガーの猫の概要◆
完全に中身が見えない(=人間の意識が影響できない)箱の中に放射性物質であるラジウムとガイガーカウンター(放射能測定器)に連動した青酸ガス発生装置、そして一匹の猫を入れておきます。
この思考実験においては量子論で定義されるアルファ崩壊が起きてアルファ粒子が放出される確率は50パーセント、ラジウムからアルファ粒子が発生したか否かで猫の生死が決定するものと仮定します。
つまり、ラジウムがアルファ粒子を発生させた場合、ガイガーカウンターがそれを感知して青酸ガス発生装置を作動させるため、箱の中に閉じ込められた猫は死にます。
内容が少しわかりづらいかもしれませんが、この思考実験で示された実験方法は、波動関数で記述される『量子論の確率解釈』(=量子の物理法則)を『猫の生死』という巨視的事象に直接影響させる方法を示したものです。
『コペンハーゲン解釈』に従えば、ガイガーカウンターの放射能検知(=観測)によってアルファ崩壊が決定するため、その結果として同時に猫の死も決定します。
尚、コペンハーゲン解釈に於いて物理系(=巨視系)は観測されるまで明確な特性を持ちません。
箱の蓋を閉じることで観測が途切れる猫の系は、『生きている猫と死んでいる猫の重ね合わせ』ではなく、箱を開けて観測される時点までは『死んでもいなし生きてもいないし、もっと言えば猫ですらない』といったように最初の文鳥の話の結論と同様に観測以前の存在そのものを無視できるものとなるため、この思考実験において矛盾を生じません。
箱の蓋を閉めた時点で観測が途切れるラジウム、ガイガーカウンター、青酸ガス発生装置といった猫以外の物理系も同様に、それぞれがどうなっているのかを観測するまでは全く考慮する必要がなく、『猫の生死』についてはあくまで『ガイガーカウンターがラジウムのアルファ崩壊を観測した結果としての猫の生死』を『観測者が観測する』ことになります。
すっかり言葉遊びのようになってしまってますが、コペンハーゲン解釈に於いては、結果的に巨視的事象を量子論に組み合わせることをうまく回避しているとも言えます。
対して『ノイマン=ウィグナー解釈』が正しいのであれば、ガイガーカウンターによるアルファ粒子の検知(=観測)ではなく、観測者が箱を開けた時点、つまりは人間の意識(=観測)によってアルファ崩壊が決定することになります。
そうなると『波動関数収縮の影響下にある猫の生死』についても、箱を開ける直前までの状態はアルファ崩壊の重ね合わせ同様に、『生きた猫』と『死んだ猫』が1:1で完全に重なり合った状態で同時に存在していなければおかしいということになってしまいます。
さらには猫だけではなく箱の中身全てが波動関数収縮の影響下にあるため、ラジウム、ガイガーカウンター、青酸ガス発生装置の系においてもそれぞれ
- ラジウムはアルファ崩壊しているしアルファ崩壊していない
- ガイガーカウンターはアルファ崩壊を感知しているし感知していない
- 青酸ガスは発生しているし発生していない
という風に、相矛盾した状態が全く同じレベルで存在しているという『ちょっと何を言っているのかよく分からない』状態にあるということになります。
『どうよ?量子力学ってこんなバカバカしいことを真面目に議論してるんだぜ?』
と言いたかったシュレーディンガーの反論はここで一旦終わったのですが・・・
『チョットマテ!量子の物理法則を巨視的事象に影響させたのなら、そもそも箱の中身だけが波動関数の影響下にあるっておかしくね?』と、
もはやこの思考実験が箱の外、つまりは宇宙全体、森羅万象に及ぼす可能性の重ね合わせへと議論が発展し、収集がつかなくなってしまいました。
( ̄▽ ̄;)
あらー。。大変なことになってしまいましたよ・・・
のち1996年、量子コンピュータ開発の礎を築き上げたセルジュ・アロシュ教授らによって、原子がその周囲の粒子と相互作用することによってデコヒーレンス(観測者効果)が引き起こされる=デコヒーレンスは特段に人間の意識によるものではないということが実験証明されています。
これによってシュレーディンガーの反論自体は実証されましたが、図らずとも『観測前の状態を観測によって知ろうとするのに、観測によって物事が定まるのであれば検証のしようがない』という、量子力学そのものが抱える『巨視的世界における観測以前の非実在性』(=冒頭の変な作文にある問題)をあらためて提示することになってしまったこの命題は、ヒュー・エヴェレットの『多世界解釈』など様々な解釈を生み出し、今まさに理論物理学の分野で研究、議論され続けています。
観測と量子状態の関係のまとめ
色んな言葉が出てきて量子力学に馴染みのない方はそろそろ混乱してきていると思います。
観測と量子状態の関係を一旦ここでまとめておきます。
”観測者効果によって量子の状態が変わる”
まずはこの前提をしっかりと頭に入れておいてください。
”観測”そのものが量子状態を変えてしまうのですから、それ以前の状態を観測する事は絶対に出来ないということでもあるのです。
観測者効果の有無 | 量子の形態 | 定義 |
観測されない量子状態 | 波(確率波)の状態 | 観測者効果がなく一定の空間に可能性として散らばっている”量子コヒーレント”状態 |
観測された量子状態 | 粒子の状態 | 観測者効果によって波動関数収縮が引き起こされた”量子デコヒーレンス”状態 |
『量子エンタングルメント』と物理学者たちの奇妙な論争
ペアの粒子はテレパシー通信をするのか?
当時、多くの物理学者の支持を受け、
『二つの粒子の結びつきとそれぞれの自転方向は、いくら遠くに引き離しても変わることなく、片方の回転方向が観測された時点でもう一方も決まる』
とする『エンタングルメント(量子もつれ)』の存在を主張するボーアが、
『二つの粒子は離れる瞬間に(もちろん観測する以前に)それぞれが回転する向きは既に決まっている』
『当然、月は私が見ていなくてもそこにあるのだ』
と主張するアインシュタインに対して、こう尋ねます。
ボーア:「ですからどうやってそれを確認するのですか?」
アインシュタイン:「なんて当たり前なことを聞くのだ?観測すればわかるではないか!」
ボーア:「だから観測することによって決まると私はずっといってるのですが、それは。」
アインシュタイン:「」
『自然界は確率が支配するものである』とする量子論と『神がサイコロを振るような真似はしない』とする天才物理学者の反論。
その後、物理学者達のあいだで、観測問題を背景としたまるで禅問答のようなこの議論が延々と続くことになります。
EPRパラドックス
この論争の背景には、1935年に発表されたアインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンの三人の頭文字を冠したEPR論文と呼ばれる論文での『量子論に対する指摘』があります。
その内容はEPRパラドックスと呼ばれる巧みな思考実験です。
後年アラン・アスぺの実験によって『エンタングルメントは実在する』という証明がなされるまでの長い間、このEPRパラドックスは『量子の奇妙な遠隔作用の矛盾』として議論され続けることになりました。
アインシュタインはその奇妙な遠隔作用がどういった矛盾を抱えていると指摘したのでしょう?
光の素粒子である『光子』を例に奇妙な遠隔作用(=量子エンタングルメント)を指摘したEPRパラドックスをわかりやすく解説します。
光子の偏光(=光の波が振動する方向)は水平方向と垂直方向の二方向を同時にとることができます。これは量子の観測以前の『重ね合わせ』(光子の偏光は水平方向であり、同時に垂直方向である)の状態であると言えます。
量子論によれば、ペアの片方を観測する事によってもう一方の偏光の重ね合わせ状態は観測された側と異なる向きに収束します。
互いが90°異なる重ね合わせ状態のペアを作り、それらを何万光年と引き離しても片方を観測した瞬間、もしそれが横向きであれば観測者効果によって遠隔地にあるペアの光子の振動方向は必ず縦向きで確定することになります。
この粒子のペアの奇妙な関係を指して『エンタングルメント』と呼びます。
EPR論文では光子の偏光ではなく、相対性理論に準じた粒子の位置と運動量を軸に議論されています。
わかりやすくそれを図を使って解説します。
EPR論文におけるアインシュタインの主張は以下の通り。
『観測で物事が決まる』という量子論では
図のような信じ難いことが起こると言っている。
完璧に証明されている相対性理論では
光速を超えて情報が伝わるなどということは
絶対に起きない。
従ってこのような奇妙な遠隔作用(=エンタングルメント)は存在せず、
ペアの粒子の状態は観測以前から決まっているものであって、
量子論は完全に間違っている!
というものです。
ちなみに『エンタングルメント』という表現は、このEPR論文を読んだエルヴィン・シュレーディンガーが広めた言葉です。
アインシュタインが逝ってしまった後の話
1964年にジョン・ベルという物理学者が、絡み合った二つの粒子の関係を解き明かす方法を発見しました。
ここに示された数式を『ベルの不等式』といいます。
幾多の技術的な問題が壁となり、いざ実験となるとその難しさゆえ何十年もの間、実験による検証がなされなかったことがより問題を深刻化させてきましたが、
1967年に当時コロンビア大学院生であったジョン・クラウザーがジョン・ベル論文の実験によって『量子論は根本的に間違っている』ということを証明する目的で、実験に必要な数千の粒子のペアの回転を観測するための発明レベルの装置を設計し、完成させました。
そして実験の繰り返しによって得られたジョン・クラウザーの思惑とは違なる結果がさらに議論の混乱と謎を深めることになってしまいます。
相対性理論の追放!?
1982年、物理学者のアラン・アスペが『光より速く移動できるものはない』としたEPR論文におけるアインシュタインの説に焦点を当てることにより、さらに精度の高い実験を行い、『超光速現象』を確認しました。
具体的には『ベルの不等式』の破れを見つける(成り立たない事を証明する)ことで、
『光よりも速く通信出来る道理が存在しないのであれば、それはなんらかの意思伝達による遠隔作用としか言いようがない』
という結論を導き、アインシュタインの指摘には当たらないとし、その結果として『奇妙な遠隔作用=エンタングルメント』の存在を証明してしまったというもの。
ペアの粒子は、距離も時間の概念もすっ飛ばして『片方を観測すれば瞬時にもう一方の状態が決まる』のです。
実験の結果証明されたのはアインシュタインが疑った『量子論の隠された変数』は存在しないということだけであって、何も量子論が相対性理論を駆逐したという話ではないことはお分り頂けるものと思いますが、
結果的に『量子論』はアインシュタインの『隠された変数の理論』よりも、より多くの事象を説明することのできる優れた理論であることが証明されたのです。
アインシュタインの量子力学に対する思い
まるでアインシュタインが量子力学に全く理解を示さなかったのような話の流れになってしまいましたが、そもそもマックス・ブランクの『量子仮説』を元に、『光は連続性を持たない光子の集まりである』とした画期的な『光量子仮説』を立てて泥沼化する量子研究の扉を開いてしまったのがアインシュタインでした。
有名な『神はサイコロを振らない』という彼の言葉に示されている通り、『曖昧さ』を嫌ったアインシュタインはボーアの『確率が自然界の事象を支配している』とする確率論解釈には全く満足せず、時には東洋思想にも傾倒しつつも『量子力学には隠された変数が存在しているはずだ』と考え、より明確で常識的な解釈を求めてひたすら悩み続けていたのです。
量子テレポーテーション実験
現在、この『量子エンタングルメント』を利用した『量子テレポーテンション』の実験が盛んで、現段階では最長で143kmの量子テレポーテーションに成功しており、発信元と受信側の二者間以外での傍受、解読が不可能になるもっとも安全な暗号通信技術としての開発が進んでいます。
テレポーテーションと聞くと”スタートレックのテレポート”や”宇宙戦艦ヤマトのワープ”、”ドラえもんのどこでもドア”など、時間と距離の概念を飛び超える『瞬間移動』を連想しますが、残念ながら量子テレポーテーションは物質そのものを瞬間転送するものではありません。
その仕組みを簡単に説明しますと、
step
1作成したペアの粒子AとBの片方の粒子Bを物理的に引き離します。
step
2残った粒子Aに対して強制的に転送したい別の粒子Cとのペアリングを行うと、粒子Cとのもつれで起きた粒子Aのみの状態変化(=粒子A')が粒子Bへ量子エンタングルメントによって伝達されます。
step
3粒子A'ともつれ合う粒子の関係は何通りかの可能性があるため、新たにペアリングされた粒子Aと粒子Cの量子状態を測定し、抽出したその補足情報を従来の通信手段を用いて遠隔地にある粒子Bへ伝達します。
step
4オリジナルの粒子Cは量子情報抽出のプロトコルによって破壊され、粒子Bは粒子Cと全く同じ情報を持つ粒子へと変化し、結果的に遠隔地に粒子Cが完全なレプリカとして出現します。
量子エンタングルメントによってペアの関係が保たれる性質を利用し、このように量子状態の比較によって遠隔地に全く同じ粒子を出現させることが出来ます。
量子情報抽出のプロトコルで粒子が破壊されるのは、粒子は単に情報の入れ物に過ぎず、粒子が持つ情報が物質の在り方を決めるからですが、新たに遠隔地に出現した粒子Cのレプリカはパソコンでファイルを複製した場合と同じくオリジナルと寸分違わぬコピーであるため、結果的にオリジナルそのものを転送したということになります。
ペアの粒子間はエンタングルメントによってその関係を保ちますが、これに『転送』が加わると量子情報の伝達そのものには電波(=電磁波=光の速さ)など別の通信手段が必要になり、エンタングルメントそのもので伝達される情報に対してどうしても遅れが生じるため、やはりスタートレックのテレポーテーションのような時間差ゼロで別の場所へ移動するようなことにはなりません。
今や電子や原子、そして複数の原子から成るグループまでも量子エンタングルメントの状態に置くこと、つまり『もつれさせる』ことが可能なので、これを応用すればあらゆる物体のテレポーテーションが理論上では可能です。
人体のテレポーテーションは可能か?
ゾッとする話ですが、量子レベルにまで人間を分解できるのであれば人体のテレポーテーションも可能ということです。(´エ`)
『量子は単なる情報の入れ物に過ぎない』のですから、オリジナルは原子や電子の抜け殻の山となってしまうわけですが、これを病気や怪我を治すといった医療目的で人体をリビルド(再構築)する技術として応用することは出来ないものでしょうか?
そっちの方が気になって調べてみましたが、生命体の量子転送は技術的な理由から、たとえ単細胞生物であっても生きたままの転送はほぼ不可能とされているようです。
結論:ハエ男にすらなれない。
il||li_○/ ̄|_il||li
本当に月は見ていなくてもそこにあるのか?
ミクロな世界の法則を巨視化して語ることは大きな誤解と矛盾を生むという前提で話を進めてまいりました。
しかしながらミクロな世界に関する法則はミクロな粒子の集まりであるマクロな自然界の根源的な法則であるとも言えます。
そこで疑問です。
果たして本当に『見ていなくても月はそこにある』のでしょうか?
アインシュタインはインドの大詩人、タゴールとも対決しています。
タゴールは
『あなたの意識にはなくても他人の意識には存在します。それでもそれは人の意識の中の話であることに変わりはありません。もし、人間の意識が月だと感じなくなればそれは月ではなくなるのです』
と言いました。
物理法則的には人が見ていなくても月は存在します。
アインシュタインは『真理とは人間の意識や存在と無関係に存在するもであり、月は物理的に存在する』と言い、タゴールは『月は人間が作り出した概念としてのみ存在している』と言っています。
この一見、まるで噛み合わないバトルが示すところは、
観測以前の状態について知ることが出来ないのは、量子レベルの物質に限らず、それがたとえ『月』であっても『人間』であっても同じだということなのです。
シュレーディンガーの思考実験にも同様のパラドックスが示されていますし、つまりは冒頭の『文鳥の話』にある『量子論が持つ歪さ』そのものの事なのですが、これについてあなたはどう考えますか?
ミクロ世界の物理法則においては観測以前の状態は『波』であると証明されました。
『巨視的世界における観測以前の非実在性』については『量子レベルの物質における観測以前の波動性』のような多角的な証明がまだなされていません。
これは『量子』の観測の中断による運動の不連続性という特異な現象は巨視系の物質には見られず、その運動の結果は観測によらず『物理法則に基づく計算式』で完全に予測が可能だからで、
実際に巨視的世界の物理法則では『ある』とされている『意識外の物体』の存在を消し去る、つまりは『誰も見てない月は確率的にしか存在しない』と証明出来ない限り、『月は見ていなくてもそこにある』のは正しいのです。
簡単な例ですと、あなたが住んでいる建物の基礎やそれを支える地面はその場所にアプローチしない限り建物の中からも外からも見えませんが、確実に存在し機能しているからこそあなたがそれらを意識せずとも建物は存在していますよね。
ところが巨視的事象に量子力学の法則が適用される実例が存在しています。
NTT持株会社ニュースリリース:超伝導磁束量子ビットを用いた巨視的実在性問題の実験的検証に成功
電子という量子が集まって作り出す電流状態は『巨視的な物質』ではなく、あくまで『巨視的なエネルギー現象』です。
なのでこれがそのまま『月は概念的にしか存在しない』といったような『巨視的物質の非実在性』を証明したという話ではありません。
でもちょっと待ってくださいね。
月は『物質』ではなくエネルギーが集まった『現象』であると解釈したら、ひいてはあらゆる巨視的物質は、量子エネルギーが作用して作り出している現象だと解釈したら・・・
「(゚ペ)
かつては天動説が主流であったように『常識』とは仮説を証明によって真とすることで塗り替えられていくものでもあり、実際その様な仮説を立てている物理学者もいます。
今まさにパラダイムシフトが起きようとしているのかもしれません。
それでどうなる?とかロマンのある話は今回はやめておきます。
٩( ´3` )۶
量子力学の法則は偉大な発見
量子力学の法則は人類史上最も偉大な発見の一つです。
多くの物理学者が従来の物理学から大きく逸脱した『量子力学』を支持した理由は、量子力学の方程式を用いれば『原子や素粒子がどのように作用するのか?』という確率を求めることができ、そしてそれが『有効かつ実用的』であったからに他なりません。
『波』または『確率波』の実体はわかっていません。
遠隔作用の存在は証明されましたがいまだにそれが『何』であるのかは解明されてはいません。
量子論が適用される物理法則の境界線も今の所は曖昧です。
ある一時点での状態を観測すれば完全な予測が可能になる『相対性理論』とは違い、古典力学の限界を超えた全く新しい解釈を元に、『量子論』は『自然界の揺らぎ』を法則として単に受け入れることで成り立っているのです。
この理論を応用したレーザー技術、トランジスタ、集積回路、そして今や量子コンピュータという『電子工学分野』、製薬、化粧品や繊維といった『量子化学分野』や人間に必須の医療分野に至るまで、
もはやどれもがなくてはならないレベルで私たちの暮らしで機能していることを踏まえると、人間にとって、実に曖昧なものでありながら確実に作用しているといったところなのではないのでしょうか。
それゆえにただ一点、私たちがしっかりと認識しておかなくてはならないことがあります。
量子の振る舞いは奇妙であり、それが研究者たちの心を惹きつけてやまないのであって、量子力学は魔術でもなんでもなく実に正確な数式から成り立っているもので、それ自体が何ら神秘的なものではないということです。
物理学では時間と空間、万有引力をアインシュタインの『一般相対性理論』と『特殊相対性理論』、そしてその他のすべての事象を『量子論』と言う具合に、この三大理論で万物の振る舞いを説明することが出来ます。
自然の振る舞いを予測するという実用的価値において量子力学のその正確さは古典物理学に何ら引けをとらないばかりか、地球上で繰り広げられる複雑な事象やそれを内包する宇宙でさえもたった数種類の素粒子であることを見極めさえすれば、いかなる複雑な現象もレポート用紙一枚に書けてしまうほどの単純な法則で成り立つということを説明しているものなのです。
法則が単純ならば予測自体が簡単なのかといえばそうではありません。
一つ一つの事象には何兆個というおびただしい数の原子が関わっていて、その計算量が途方もなく多くなるからです。
理論的に仮説や予言を打立ててのち、実験によって証明しそれを『真』とする科学者たちの探究心の情熱の源はその好奇心です。
ゆえにそれを技術利用したり、霊的な現象を人類最大の謎としてそれを解明するための研究をすることには副産物以上の価値は見いださないのですから、
テレパシーや超常現象を『量子力学が証明した』といった深慮なき考察に対して自然界の法則に真剣に向き合っている物理学者たちが『そのようなことは量子力学は何も証明していない』と苦言を呈するのはむしろ当然なことなのかもしれません。
そして、とてもシンプル。
量子力学の礎となる考え方を象徴する発言があります。
著名なMIT物理学教授のウォルター・ルーウィンが粒子の遠隔作用の原理についてこう語りました。
『なぜそうなるのかと聞かれても自然界がそうだからとしか答えられない。』
言い換えると量子力学は人間の脳が理解できる限界を超えた現象をあるがまま法則として受け入れているのであり、究極のナチュラリズムの賜物であると言えます。
このように『量子力学』の根っこは至ってシンプルなものです。
今、私たちが考えるべきことは、少なくともアインシュタインほどの天才が悩み抜いても行き着くことがなかった答えを求めることではありません。
自分や周囲のあらゆる物を構成しているミクロ物質の科学的に証明された特性を科学者たちと同様に単に受け入れることさえできれば、それを『物事の本質を見極める助け』とすることが出来ると思うのです。
最初に申し上げました様に私は学者でもなければ理系専攻の経験もありません。
量子論を学ぶ価値やその面白さを知っていただきたくてかなり一所懸命に書いた記事ですが、まだまだ知識が乏しく正直うまく伝えられていない部分もあったかと思います。
ただこの記事を読んでくださったあなたが量子力学に興味を持ってくれたのなら私にとってそれ以上のことはありません。
最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。